- 2026年9月、ナビエ・ストークス方程式をめぐって、大学の数学者チームとOpenAIが同じ日に成果を公開しました。研究者側はCodexとClaudeを使って1年近く取り組んでおり、OpenAIが着手したのはその進捗を聞きつけた後です。
- ログを見たかどうかは水掛け論になっていますが、預けたデータが預け先でどう扱われたかを利用者が確認する手段はない、という構造に問題があります。
- 同じ構図はMicrosoftのHotmail閲覧やAmazonの出品者データでも起きてきました。データの預け先が自分の競合だったかどうか。
- 対策は、情報を「見られても問題ない」「規約上見られないはず」「技術的に見られない」の3段階に振り分けることになります。
1. AIで整理していた研究が、たった数日で追い越された?

1.1. 日付だけ並べるとわかること
8月15日、ニューヨーク大学のトリスタン・バックマスター氏と、Anthropicに所属するレベント・アルポーゲ氏が、オイラー方程式の有限時間爆発を示しました。 コルドバ氏とマルティネス゠ソロア氏が作った「強制項」の手法を拡張したもので、8月22日ごろには手元の結果がまとまっています1。 アルポーゲ氏の参加は会社の業務ではなく、個人の共同研究です。
9月3日、両氏の進捗の情報がOpenAIに伝わりました。 9月6日に電話での協議があり、9月8日に両氏が3本の論文とLean形式化を公開。 同じ日にOpenAIが、未公開の社内モデルによる約100ページの証明とLean形式化を公開しました2。
OpenAIのモデルはGPT-6 Astraを大きく上回るとされ、一時は1万個のサブエージェントが問題の各部分を並行して扱っていたそうです3。 そして同社は、自社の取り組みが情報の伝わった後に始まったことを認めています。 1年近くかけた仕事に、数日で並んだ計算になります4。
1.2. 見えないのは通話の中身とログの行方
バックマスター氏は、アルポーゲ氏をAnthropic所属を理由に著者から外すよう求められたと書いています5。 OpenAIのセバスチャン・ビュベック氏は、自身の論文の著者から外すよう求めたことはなく、話していたのはOpenAI側の証明を書き直す案だったと反論しました。 キャリアに触れる発言があったことは認めて謝罪し、すぐ撤回したとしています6。
もう一つの争点が、Codexのログです。 両氏は草稿をすべてCodexのセッションに入れていました。 OpenAIは、公開前に両氏の成果を見ておらず特定のユーザーデータにもアクセスしていないと否定しつつ、両氏が同社の製品を使ったことに由来する匿名化データがモデル改善に寄与した可能性は完全には排除できない、とも述べています7。
両氏が学習のオプトアウトを設定していたかは、公開された情報からはわかりません8。 確認できるのは、学習について尋ねたけれど答えが得られなかった、という記述だけ。 ここは、当人が明かさない限り保留にするしかない部分です。
2. 規約に書いてあるからできる、は前からあった

2.1. MicrosoftがHotmailを開けた日
2012年、Windows 8の未発表版が元社員から流出しました。 Microsoftは流出先のフランス人ブロガーのHotmailを、令状なしに自社の調査部門が閲覧しています9。 裁判資料から2014年に発覚し、同社は利用規約に自社の権利や財産を守るための閲覧が定められていると説明しました。
規約上は許されていたわけです。 それでも批判は収まらず、社内で閲覧するのをやめて捜査機関に委ねる方針に改めました10。 預かった側が自社の利益のために中を見る、という一点で今回と同じ形をしています。
2.2. Amazonが出品者データで争った件
Amazonは、出品者に売り場を貸しながら、自社でも同じ場所で商品を売っています。 この二重の立場を使って出品者の非公開データを自社小売やプライベートブランドに流用しているのではないか、と欧州委員会が2019年に調査を始めました。 2020年に異議告知書、2022年12月に、出品者の非公開データを競合する自社事業に使わないという確約が法的拘束力を持つ形で決着しています11。
道具を貸す側が同時に競合、という構造は今回とそっくりです。 ただし決定的に違うところがあって、Amazonの件は「使った、使っていない」を後から検証できました。 モデルの重みに溶けた寄与は、そうはいきません。
3. 見られても問題ない、規約上問題ない、技術的に問題ない

3.1. 情報を3つに分ける
分ける基準を「秘密かどうか」に置くと線が引けません。 「見られたときに取り返しがつくかどうか」に置くと、途端に決めやすくなります。
公開が前提の情報は、見られても失うものがありません。 公開済みの資料、これから出す記事の下書き、一般的な調べもの。 ここは無料プランでも構わないし、設定を気にする必要もない。
非公開だけれど後から手当てできる情報は、契約で守る層です。 社内の議事録、顧客名、未発表の企画。 学習に使わないことが既定になっている法人向けプランやAPIを選び、不要になったら消す運用にします。
見られた時点で価値が消える情報は、サービスを選ぶ話ではありません。 出願前の発明、未公開研究の核心、公表日の決まった発表内容。 渡さない、固有名や数値を抜いて骨組みだけにする、手元で動くモデルを使う。 バックマスター氏の草稿は、この層に置くべきものでした12。
3.2. 設定は一か所にまとまっていない
個人向けの無料・有料プランは、入力が学習に使われうる状態が既定です。 ChatGPTなら設定のデータコントロールにある「Improve the model for everyone」を切ることでオプトアウトできます13。 法人向けやAPIは、契約として学習に使わないことが最初から決まっているので、この操作は要りません。
厄介なのは、切ったつもりで残る設定があることです。 Codexには「フル環境での学習を許可する」という別系統の設定があり、ChatGPT側のトグルでもプライバシーポータルからの一括オプトアウトでも切り替わりません14。 エージェント型のツールは、チャット本体とは別の入口を持っていると考えたほうが安全です。
もう一つ、学習をオフにしても入力がサーバーに送られること自体は変わりません。 不正利用の検知のための保持期間も残ります。 データを一切外に出したくないという要求は、設定ではなく契約でしか満たせない15。
3.3. AIには暗号化して預けるという手がない
クラウドストレージなら、自分で暗号化してから預けることができます。 保管が目的なので、中身を渡さなくても機能が成り立つ。 アクセスログを見れば、誰がいつ触ったかも確認できます。
AIは、中身を読ませることが機能そのものです。 暗号化して預けるという選択肢がなく、読ませない限り役に立ちません。 そして学習に取り込まれた寄与は、後から特定できない。
だから判断の順序は、サービスからではなく情報の性質から始めることになります。 取り返しがつくなら契約で足りる。 つかないなら、性能を捨ててでも渡さない側に倒す。 便利だからという理由でサービスを先に決めて後から情報を流し込むと、いちばん守るべきものが、規約頼みの場所に置かれます。
3段階に分けたところで、面倒は消えません。 性能の高いモデルほどクラウドにあり、手元で動くものは物足りない。 その交換条件を毎回引き受けるのは、正直しんどいところです。 ただ、今回の件で研究者側が置かれた状況を見ると、面倒を先に引き受けたほうが安いのだろうな、とは思います。
- 両氏は8月15日にオイラー方程式の爆発を示し、コルドバ氏とマルティネス゠ソロア氏の強制項の手法を拡張したものだと報じられています。未公開のこの成果の噂が、その後の一週間でOpenAIに伝わりました。 – OpenAI Claims Navier-Stokes Proof; Buckmaster Alleges Misconduct
- OpenAIは、静止状態から滑らかな外力で駆動された流体が有限時間で特異点を生じることを示したとして、クレイ研究所の公式な問題設定のうち「C」と「D」を確立したと説明しています。大域的な滑らかさの証明ではなく、その否定にあたります。 – On the Navier–Stokes Millennium Prize Problem
- 未公開の社内モデルが指揮するマルチエージェント構成で、一時点では1万個の異なるサブエージェントが問題の各部分と変種を担当していたと報じられています。 – OpenAI says it cracked Navier-Stokes, one of math’s grand challenges
- なお賞金は現時点で誰も受け取れません。クレイ研究所の規定では一流の数学誌への発表後、2年間の専門家による検討を経て受理が判断されます。OpenAI自身も、この結果でミレニアム賞を主張する意図はないと明言しています。 – 90年の未解決問題「ナビエ・ストークス」にAIが到達した週
- バックマスター氏によれば、この要求は2度あり、公表すると告げた際にはキャリアを台無しにするのかという趣旨の発言があったとされます。 – OpenAI、ミレニアム懸賞問題「ナビエ・ストークス方程式」をAIが解決したと発表 数学者は経緯に反発
- ビュベック氏は当初、出回っている非難は事実に反し扇動的だと述べ、翌日に詳細な反論を公開しました。アルトマン氏も、両氏が解いたのがオイラーだと分かった時点で先に発表してよいと申し出たと述べて擁護しています。 – OpenAI Says It Solved a $1M Math Problem. A Rival Mathematician Says He Did It First
- OpenAIは公式に、研究員もエージェントも公開前に両氏の成果を見ておらず、この問題を解くために特定のユーザーデータにアクセスしたこともないと否定しています。 – OpenAIが「GPT-6 Astraより高性能なモデル」を用いて数学の難問「ナビエ・ストークス方程式」の解決を主張
- 報道は、オプトアウトしない限りCodexでのやり取りを学習に使う権利をOpenAIが留保していることを、バックマスター氏が疑いを持った根拠として説明しています。彼自身の設定状態が確認されたわけではありません。 – NYU Professor Challenges Origin Of OpenAI’s AI Proof
- 元社員のアレックス・キブカロ氏の起訴に伴う裁判資料で、社内の情報漏洩調査チームがブロガーの受信箱とインスタントメッセージを調べていたことが明らかになりました。 – Microsoft Scanned Blogger’s Hotmail to Find Windows 8 Leaker
- Microsoftは2014年4月、不正が疑われる場合でも自社で顧客のアカウントを調べることはせず、捜査機関に引き継ぐと表明しました。当時のHotmailの利用者数は1億7千万人とされています。 – After Public Outcry, Microsoft Reverses Course on Email Search
- 欧州委員会は、出品者の非公開データを自社の小売判断に用いることが公正な競争を歪めたと認定しました。確約に違反した場合、年間総売上高の最大10%の制裁金を科しうるとされています。 – Antitrust: Commission accepts commitments by Amazon barring it from using marketplace seller data
- 同氏は草稿をすべてCodexのセッションに入れていたと書いています。強制項でクレイの問題に迫る道筋は他にほとんど誰も取り組んでおらず、問題文を与えて数日で行き着く方向ではないというのが、疑念の根拠です。 – OpenAI、ミレニアム懸賞問題「ナビエ・ストークス方程式」をAIが解決したと発表 数学者は経緯に反発(Yahoo!ニュース)
- プロフィールから設定、データコントロールと進み、このトグルを切ると、以降の会話は学習に使われなくなります。すでに使われた分は戻りません。 – What if I want to keep my history on but disable model training?
- OpenAIのヘルプは、ChatGPTの画面やプライバシーポータルでの設定変更がCodexのフル環境設定には影響しないと明記しています。 – How your data is used to improve model performance
- ChatGPT BusinessやEnterprise、APIの入出力は、既定でモデル改善に使われません。個人向けプランのように利用者が設定を切って回る必要がない代わりに、契約の側で決まっています。 – Using Codex with your ChatGPT plan