なぜ祇園祭は「ない」のに「ある」のか
夏の京都を歩いているとき、不思議に思ったことはありませんか。
「祇園祭」という言葉を聞くと、多くの人が特定のイメージを思い浮かべます。山鉾巡行、宵山の提灯、コンチキチンの祇園囃子、浴衣姿の人々…。この祭りは確かに存在します。しかし、よく考えてみると奇妙なことに気づきます。山鉾巡行は「祇園祭の一部」であって祇園祭そのものではありません。宵山は「祇園祭の前夜祭」であって祇園祭そのものではありません。
では、祇園祭とは一体何なのでしょうか。
この問いは、実は東洋哲学の古典的な問題と深く関わっています。老子の『道徳経』冒頭の「道可道也、非恒道也」という一文です1。
道可道也、非恒道也
「道可道也、非恒道也」の一般的な読み方を見てみましょう。
道可道也、非恒道也。
名可名也、非恒名也。
無名、万物之始也。有名、万物之母也。道の道(ゆ)くべきは、恒なる道に非(あら)ざるなり。
名の名づくべきは、恒なる名に非ざるなり。
名無きは万物の始めなり。
名有るは万物の母なり。
多くの解釈書では「普通に行く道と、『恒久なる道』はまったく違うものだ。普通にいう名と『恒久なる名』もまったく違う。」と訳されています。しかし、この解釈には不自然な点があります。最初の「道」と最後の「道」は普通に「道」として読んでいるのに、なぜ「可道」だけを「道く」という動詞に変えるのでしょうか。
「名」と記号の構造
「名可名也、非恒名也」について、ソシュールの記号論では、名前と意味の関係を「記号(シーニュ)」という概念で説明します2。記号は二つの要素から成り立っています。「記号表現(シニフィアン)」と「記号内容(シニフィエ)」です。
- シニフィアンは音や文字などの物理的な形、
- シニフィエは意味や概念のことです。
人の名前は、その人と必然的な関係を持っているわけではありません。生まれたときに偶然つけられただけです。しかし、名前には不思議な力があります。呼ばれ方によって気分が変わったり、印象が変わったりします。
祇園祭の場合、「祇園祭」という音や文字がシニフィアン、それを聞いて頭に浮かぶイメージ(山鉾、宵山、夏祭りなど)がシニフィエです。重要なのは、この関係に必然性がないということです。「祇園祭」を「夏祭り」と呼んでも構わないし、実際に英語では「Gion Festival」と呼ばれています。
老子の言う「非恒名也」というのは、この記号の恣意性という考え方に対応しているかもしれません。とすると、「名可名也」も同じ文脈でとらえることができます。つまり、「名は恣意的なものであって、必然的なものではない」と読むことができます。名前と意味の結びつきは、その都度の状況で決まり、「どんな名付け方も許可される」のです。
「可」と「恒」の字源を考える
老子の「名可名也、非恒名也」を深く理解するために、字源に遡って「可」と「恒」の意味を解釈してみましょう。
- 「可」の字源: 「可」は神に祈りの実現を要求する字です。
白川静の研究によると、口(祝詞を入れる器)を木の枝で殴って神に強く訴え、神が「よし」と許可を与える状況を表しています3。つまり「可」は、神(または状況)への働きかけによって得られる条件的な許可を意味します。 - 「恒」の字源: 「恒」は「心」と「亘」から成ります。
「亘(渡る、通り抜ける)」の甲骨文字では月が天地間を移動する様子を表し、月の規則的な運行から「恒常性」の意味が派生したとする説が一般的です。つまり永続的で不変の心の状態を表しています。
つまり、「可」と「恒」という2つの漢字は、対になる意味を持っているのです。
- 「可」:状況(神の思しべし)に応じて変わる条件的で動的な存在
- 「恒」:時間を超えて変わらない規則的で静的な存在
基本的には「可」は、動詞に接続し「〜べし」という助動詞の意味を作ります。しかし、形容詞として「ふさわしい(条件にかなう)」とも解釈できるのかもしれません4。
「道」は進み、移り変わる
実は、唐の玄宗皇帝もこの読み方をしていたそうです5。
「道は可道であり、恒道ではない。」この読み方は、文章の「道・可道・非・恒道」という構造に自然です。「道・道・道」とすべて「道」で統一されています。この解釈では、「道というものは可能性としての道であって、固定的な道ではない」となります。
一般的には、概念としての「道」は「やり方」と解釈されることが多いです。しかし、原初的な意味では、シニフィアン・シニフィエの根本的な問題、つまり「道」とは、存在のあり方そのものを言及しているようです。
祇園祭を例に考えてみましょう。この祭りは同じ名前を保ちながら、そのあり方は変わってきています。平安時代の疫病退散の祈りから6、室町時代の町衆文化の表現へ、そして現代の国際的文化遺産へ。それぞれの時代で、祇園祭の「あり方・あり様」も違うようです。それどころか、毎年の祇園祭は、参加者は入れ替わり、少しずつ違うのです。
しかし、それでも確実に「祇園祭」として続いています。これが「道は可能性としての道」という意味です。、どの過去の祇園祭が本物で、今の祇園祭が偽物だということではありません。その時々の状況で、その時にふさわしいあり方で存在する。これが「可能性としての道」の意味で、固定的な本質を持たないの「存在のあり方」だと言えます。
人間の生き方も同じです。子どもの頃のあり方、青年期のあり方、老年期のあり方はそれぞれ全く違います。しかし、どれも同じ一人の人間です。固定的な「真の自分」があるのではなく、その時々の状況で最適なあり方を見つけていく。これが「道」なのです。
道に分岐はあるのか?
東洋的な「道」の考え方は、西洋的な「選択」の考え方とは根本的に異なるようです。
西洋的な思考では、人生は分岐点の連続です。
道は必ずどこかで分かれていて、正しい選択をすれば報われ、間違った選択をすれば罰せられます。テストや裁判がその典型例です。
しかし、現代の組織では、優秀な人材が集まっているにも関わらず、全体として非合理的な行動を取ることがあります。個人レベルでは「正しい判断」ができるのに、組織レベルでは間違った方向に進んでしまう。これは選択や判断力を重視する考え方の限界を示しています。
東洋的な「道」の考え方では、道は一本道です。
分岐点はありません。重要なのは道から外れないことではなく、外れたときに戻ってくることです。
論語には「過ちて改めざる、是を過ちという」という言葉があります。つまり、道から外れること自体を過ちとは言わず、間違いを犯したままにしておくことを過ちと言っています。これは、間違った選択そのもの否定する考え方とは根本的に違います。「道モデル」では、間違いを前提として、修正しながら進むことを重視します。
論語での「道」
当時の「道」の意味を「あり方」という解釈で当てはめると、ほかの論語の一節もスムーズに理解できます。
子曰く、「父在らば、其の志を観る。父没すれば、其の行いを観る。
三年父の道を改むる無きは、孝と謂うべし。」
従来は、「父のやり方を改めない」と解釈していましたが、もし父のやり方が間違っていた場合に変えてよいのか、という齟齬をきたしてしまいます。一方、「父のあり方を改めない」とすれば、「父が亡くなったら、すぐにその遺品や部屋を片付ける」というのは薄情であって、「3年は、そのままにしておく」「まるでそこに父がいるかのように振る舞う」と、「孝」の意味を解釈できます。
子曰く、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」
従来なら「世界の真理や理想を理解したら、死んでもよい」と解釈されますが、世界の真理など理解できるのでしょうか。これを「自分自身のあり方を内面から納得する」と解釈すると、アンパンマンの「何が自分の幸せかわからないまま終わるのは嫌だ」という考えと共通します。
合理と神秘の統合
最終的に、この考え方は「合理的神秘主義」とでも呼べるものに行き着きます7。
世界には言葉で説明できない神秘的な側面があることを認めつつ、同時に合理的・科学的な方法でその働きを理解しようとする姿勢です。20世紀の哲学者ヴィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と言いましたが、それは語り得ぬものの存在を前提として、語り得る範囲で語ることでもあります。
まとめ
老子の「道可道、非恒道」を「道は可能性としての道であって、固定的な道ではない」と読み直すことで、存在とは実体ではなく現象であり、真理は固定されたものではなく状況に応じて現れるものだと考えることができます。
祇園祭が「あるけれどない」ように、道もまた現象として現れる動的な存在なのです。
- 「道」とは何か? :『論語』と『老子』の世界観 What is “The Way”? ー Outlook on the World of “The Analects of Confucius” and “Lao Tzu” [JP] | UTokyo.TV | 東京大学
- 老子と『老子』について|保立道久の研究雑記 – 老子の成立と楚簡老子の発見について、最新の研究成果を紹介
- シニフィアンとシニフィエとは?意味をやさしく解説 – サードペディア百科事典 – 構造言語学の記号論について、ソシュールの理論を分かりやすく説明
- 祇園祭|主な神事・行事|八坂神社 – 祇園祭の起源と宗教的背景について、八坂神社による公式説明
- 第9回 可・哥・歌|親子で学ぼう!漢字の成り立ち|ジャパンナレッジ – 「可」の字源と神への祈りの関係について、白川静の文字学研究に基づく解説
- 老子の実在性については現在でも学術的な議論が続いている。近年の研究では、老子は半ば伝説上の人物で、『道徳経』は複数の道家学派によって執筆・編纂されたものとする説が主流となっている。 – 老子道徳経 – Wikipedia
- ソシュールの記号論は現代言語学の基礎となった理論で、記号(シーニュ)がシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)から構成され、その関係には恣意性があるとする。この理論は構造主義思想の発展にも大きな影響を与えた。 – シニフィアンとシニフィエ – Wikipedia
- 白川静の字源説は独創的な研究として注目されているが、一部の学者からは「根拠が不十分」という批判もある。字源学は解釈の余地が大きい分野であり、複数の説が存在することを理解する必要がある。 – 落合淳思氏の白川文字学への批判について
- 「可」のほとんどは後に動詞になる字を伴っています。ただし、これには表裏あり、「可」の後にあることで、あえて動詞として解釈している側面もあります。
- 玄宗皇帝による『開元御注道徳経』の存在は記録されている。老子の解釈には古来より様々な説が存在する。 – 「道」とは何か? :『論語』と『老子』の世界観 What is “The Way”? | 東京大学
- 祇園祭の起源については、863年(貞観5年)の御霊会が先行する形で行われており、869年の祇園御霊会がより直接的な起源とされている。疫病退散を目的とした宗教行事として始まった歴史的事実は確実である。 – 祇園祭 – Wikipedia
- 学術的に確立された概念ではないか、東洋思想における合理性と神秘性の統合については、様々な哲学者によって異なる表現で論じられている。 – 老子道徳経を超個人的に訳してみた|哲学チャンネル