AIを使えば作業が速くなります。
コードが生成され、調査が数分で終わり、文章の叩き台が瞬時に出てくる。
それなのに、豊かになった感じがしない。
むしろ疲れている。
この感覚はなぜ生まれるのか。
1. 体感と価値はなぜずれるのか
「AIで生産性が上がったと感じるのは錯覚だ」という講演スライドを目にしました1。
そこで、理由として三つが挙げられていました。
- ソフトウェア開発の本質的な複雑さはAIで速くならないこと、
- 効率化で生まれた時間が組織の慣性に吸収されること、
- 競合も同じ速度で速くなるから相対的な優位は生まれないこと。
整理として、すごく納得感があります。
そこで、考えたのが「誰にとっての生産性か」という問い。
企業の生産性と、そこで働く人間の豊かさは、同じ概念ではないように感じます23。
2. 供給増加という構造的な問題
向上した生産性を他者への提供として市場に出した瞬間、需要と供給の法則が働きます。
全員がAIで2倍速くなれば、供給が2倍になる。
競争の結果として価格か賃金が下がり、個人が速くなった恩恵は希薄化されます。
労働市場だけの話ではありません。
企業も同じサイクルに入ります。
AIで開発速度が上がり、より多くの機能をより安く提供できるようになる。
競合も同じことをするから、機能の価値が希薄化して価格競争になる。
生産者として希薄化されながら、消費者としてだけ得をする構造が生まれます。
消費者としての恩恵は確かにあります。
物価が下がり、以前は専門家に頼むしかなかったことが自分でできるようになる。
ただしその消費者は同時に労働者でもあり、生産者としての損失と差し引きしてどうなるか。
個人の状況によって全く違うのかもしれません。
たとえば、高スキルで雇用が安定している人は両方の恩恵を受けるものの、代替されやすい職種の人は消費者メリットより労働者デメリットが大きくなりえます4。
3. 富はどこへ向かっているのか
供給が増えて価値が希薄化する過程で、その流れを支えているAIインフラ企業には富が集まっていくのかもしれません。
とはいえ、現時点では、その富の集中も始まっていないようです。
AI企業の多くはまだ赤字で、投資家の資金で成り立っています。
将来の富の集中を見越した投機が先行している段階です5。
今起きていることを整理すると、先行投資で増えた価値が広く薄く分散して、コストは投資家と生産者が負担している、という奇妙な状態かもしれません。
4. 自分のための生産性と、他者のための生産性
向上した能力を自分のために使うのか、
他者への提供として使うのかで、話が変わるのかもしれません。
雇用関係の中でAIを使う場合、能力向上は基本的に雇用主への提供量として変換されます。
それが賃金に反映されるかどうかは別問題で、反映されなければ純粋に他者のための能力増加になる。
でも、個人的な学びや探索にAIを使う場合は、市場の競争圧力に晒されません。
速くなった分が自分の豊かさに直接還元されます。
ちょうど、車を得てドライブに行けるように。
AI疲れの質感の違いはそこにある気がします。
自分のために使っているとき、人は疲れても回復できる。
でも、他者に求められて使っているとき、疲れが負債として積み上がる。
能力向上のスピードが上がった分、供給増加と希薄化のサイクルも速くなっていて、疲れが追いつかないのはそのためかもしれません。
5. 問いとして残ること(受け皿はどこ?)
この問題は、「資本と労働の対立」として読むこともできますが、その図式はちょっと単純すぎるかもしれません。
過去の技術革命を振り返れば、長期では労働者も含めて豊かになってきた歴史がありますし。
ただ、今疑問に思うのは、「今回、人間が移動できる次の産業はどこにあるのか」です。
農業機械化は農業労働者を製造業へ押し出し、ITは製造業労働者をサービス業へ押し出した。
AIが認知労働まで代替するとき、その受け皿がまだ見えていません6。
生産性向上の果実を誰がどう受け取るかは、技術ではなく制度と政治が決めます。
その議論は個々のエンジニアや経営者が解ける問題ではなく、別の舞台で行われるべき話なるかもしれませんね。
ただ、現実だけが速く進んでいます。
AI疲れは、その速さのコストを個人が先払いさせられている感覚として現れているのかもしれません。
- なぜ、AIで生産性があがっていると錯覚してしまうのか
- Faros AIが1,255チーム・10,000名以上の開発者テレメトリを分析した結果、AIを多用するチームはタスク完了数が21%増、PR数が98%増だったが、企業全体のスループットやDORA指標には有意な改善が見られなかった。PRレビュー時間は91%増加し、ボトルネックが下流に移動しただけだったことが示されている。 – The AI Productivity Paradox Research Report | Faros AI
- UC BerkeleyのRanganathanとYeが200名のテック企業従業員を8ヶ月間追跡した調査では、AIを使うことで作業ペースが上がり、担当範囲が広がり、労働時間が延びる「仕事の強化」が起きることが示された。2026年2月にHBRで発表された。 – AI Doesn’t Reduce Work—It Intensifies It | Harvard Business Review
- MITのダロン・アセモグルはAIが現状では「労働代替型」に偏って展開されていると指摘する。技術が新しい仕事を生み出す速度より労働を代替する速度が上回る場合、賃金の低下と資本・労働間の格差拡大が起きるとしている。 – Harms of AI | NBER
- BCGが59カ国・1,000名のCxOを対象に行った調査では、AIから実質的な成果を出せている企業は26%に留まり、全社規模で価値を創出できているのはわずか4%だった。成功企業はリソースの約70%を人とプロセスに投じているという。 – AI Adoption in 2024: 74% of Companies Struggle to Achieve and Scale Value | BCG
- アセモグルの「The Simple Macroeconomics of AI」(2024)は、今後10年のAIによる全要素生産性の伸びを0.55%未満と予測する。現在の技術展開が労働補完より労働代替に傾いており、新たな雇用の受け皿となるタスク創出が伴わない場合、賃金・雇用への恩恵は限定的だとしている。 – The Simple Macroeconomics of AI | MIT